大聖寺の郷愁風景

石川県加賀市<城下町> 地図
 
町並度 6 非俗化度 6 −加賀藩支藩・大聖寺藩の城下町−




大聖寺山田町の町並
大聖寺は加賀藩の支藩・大聖寺藩の中心として城下町が形成されていた。寛永16(1639)年加賀藩3代藩主前田利常の三男利治を大聖寺に配し、7万石で立藩した。北側の大聖寺川と東側の熊坂川を自然の堀とし、内部に城下町を築造した。

大聖寺荒町の町並




大聖寺京町の町並 大聖寺福田町の町並


 藩の政治は初代利治と2代利明の時代に体制が築かれ、金銀等の資源を開発して後年の九谷焼を生む基礎を築いたほか、加賀藩から紙漉きの技術を取り入れ定着させた。また大聖寺川を改修し、低湿地帯で洪水に度々見舞われる城下の治水を図った。
 しかし3代以降、藩の財政は悪化の一途を辿っている。藩主はほとんど加賀藩からの養子で、藩政の弛緩、さらに幕府から土木工事の補佐など幾度となく手伝いを命じられ、財政は困窮した。百万石の支藩という肩書にこだわり体面維持のためか、9代藩主利之は幕府に10万石の高上げを懇請し認められたが、このことも藩の経済を一層苦しくした。
 江戸末期から明治にかけては、養蚕業、製糸業などがおこりそれに伴い織物産業が発達。第二次大戦下に軍需製品に転向せざるを得なくなるまで当地の基幹産業となった。
 現在の大聖寺の町並は路地が碁盤の目風に走っており、城下町時代の町割が比較的良く残っている。町名も本町・魚町・京町・鷹匠町・鉄砲町など城下町らしい名が踏襲され、それらの地域に古い家屋が残っている。主立った商人は本町・京町・山田町辺りに置かれており、現在でもそれらの地区を中心に伝統的な町家建築が多く見られ、往時の状況と符合する。
 平入り切妻、袖壁を二階妻部に従え、軒庇はトタン葺という北陸地方で見られる一般的な町家の姿を示す。間口も比較的広いものが多く商家として発展していたのだろう。また、軒下に幕板が下がっているものも多く見られる。
 加賀市はこの旧大聖寺城下町を観光資源として意識されているようで、観光案内所を設け随所に歴史案内等の看板を設置したり、レンタサイクルなども取扱っている。自転車で周遊するにちょうど良い町の規模であり、古い町並、旧大聖寺川沿いの船着場の遺構などを巡って数時間で一通り網羅できる。
 出来うるならば、代表的な町家建築が内部見学できるようになればよいのではと思う。




大聖寺福田町の町並 大聖寺中町の町並

訪問日:2003.11.02
2015.06.14再取材
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