福知山の郷愁風景

京都府福知山市<城下町・商業都市> 地図 
 
町並度 6 非俗化度 8 −丹波の中心都市−




菱屋町の町並
 

 福知山市は丹波地方最大の都市で、日本海に注ぐ由良川の中流盆地にあり諸支流の合流点にあたる。地形の上でも結節点となるべきところである。
 南北朝期にはここに軍事的拠点が築かれ、天正7(1579)年明智光秀の丹波制圧により福知山城として近世城郭を形成し、城下町も次第に整備されていった。現在中心市街地の東部にある福知山城址であるが、当初由良川は城の北側で西に大きく流れを変え、現在の福知山駅付近まで蛇行していた。光秀はこれを付け替え、城の西から北にかけてを城下町として計画したとされる。




西町の町並 柳町の町並 飲食店として利用される商家





 光秀の後城主が頻繁に入れ替わり、関ヶ原の役を経て有馬氏が丹波に入国した。この有馬氏の折に本格的な町人地の建設が行われ、市街地の基盤が形作られたという。東は由良川本流を天然の濠とし、西と北は濠を二重に築き、丘陵地の迫る南側も鞍部を利用した塹壕をうがって囲繞した。侍屋敷と町家地区の間にも門を設けて警戒するほど厳重なものであった。
 城下町の発展は商都としての発達と同じ歩みであった。由良川は水運として利用価値が高く、三丹地方(丹波・丹後・但馬)の結節点として非常に重要なもので、京大坂と日本海岸の地方との物資の往来の多くはここを経由していた。現在の広小路の東端付近に船着場があり、また京街道と呼ばれる街道が由良川に沿い南北に走り、本陣や旅籠なども具備され宿駅的な役割を帯びていたという。この川に近い京街道沿道を中心に問屋や卸売商が集中して立地し、商取引の中心として賑わった。江戸期は17軒の船屋が指定されていて、水運業はそれらの業者で独占的にとり行われていたという。それは舞鶴まで鉄道が開通し、由良川水運が衰退する明治後期まで続いた。しかし鉄道の要衝となったことで水運から陸運の拠点として更に隆盛を誇り、丹波の京都とも言われ駅付近との間に大規模な繁華街も形成された。
 現在も市街地の東側を中心に広範囲に古い町並が見られる。特に旧京街道に沿った菱屋町・下柳付近は町家建築が高い連続性を保った町並が残っている。間口の広い商家建築が主体で、二階の立上りが大きいことから明治後期から大正にかけ建てられたものが中心と思われた。
 今回の再訪で、より広い範囲を探訪してみたが城下町に由来する町だけに多様な町の表情を改めて感じた。また、地元の方々が伝統的な建物を意識し活用されている姿が目立った。飲食店などに二次利用された商家の建物などもあり、賑わいを見せる店舗もあった。また広小路という東西の通りなど、電線の埋設が行われ修景された箇所もあった。
  
菱屋町・上紺屋町(広小路)の町並


新町商店街の商家建築 
 



 
長町の町並  内記の町並 


2022.10再訪問時撮影     旧ページ

訪問日:2012.04.29
2022.10.16再訪問
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