伊予吉田の郷愁風景

愛媛県吉田町<陣屋町> 地図 <宇和島市>
 
町並度 6 非俗化 8  −小藩ながら様々な産物に恵まれた陣屋町−





重厚な旧家の残る地区もある吉田の町並
 

 吉田町は宇和島に接する町で、宇和海に開けた湾の奥に町が開ける。現在は蜜柑の町として知られるこの町は、江戸期には吉田藩が成立し、陣屋町を形成していた。
 関ヶ原の戦の後、慶長19(1614)年伊達政宗の長子、秀宗が宇和郡10万石の大名として入部し、後の明暦3(1657)年には宇和島藩主となっていた秀宗の五男・宗純が85の村々を分知され、吉田に居館を定めた。
 陣屋町は立間川と河内川という2本の川の集まる河口近くに設置され、周囲を武家町とし海に向って伸びる葦原を開拓して新田として造成され町人町が整備されている。両者の間には横堀川という人工の川で仕切り区別した。町人町の西側の川岸は港となり、宇和海との出入りがあった。町の北部は険しい法華津峠に阻まれていて険しい陸路であったことから、町は海からの出入りを基本に考えられていた。参勤交代の一段も船で出発することが多かったようである。
 3万石の小藩ではあったが、藩域は宇和海沿岸の港町が多く含まれ、特に鰯漁業が盛んであった。幕府の献上品ともなっていた一方、干鰯(煮干)や瀬戸内地帯で当時盛んだった綿花栽培の肥料として鰯粕も重要産物として商取引された。また、紙産業・蝋産業も藩の主要な産物として専売制をしき、産業・商業の町として発展を遂げていた。このうち蝋は、近代に入り蜜柑産業にとって変わる頃には廃れ、原料となる櫨の木は片っ端から切り倒されたという。
 横堀川は今でもはっきりと残り、家中町と町人町に画然と分かれていた往時を想起させるが、北側には町並として往時を彷彿とさせるようなものは少ない。一方で南側の町人町築には商家風の重厚な旧家が残っている。二階部分に木製欄干を残すもの、一階部には格子や一部蔀戸の名残を残すものも見られ、かつては商店が並ぶ賑やかな街区であっただろうことがわかる。今回は再訪であるが、この最も古い町並らしい地区を訪ね損ねていたようだ。
 見たところでは全く町並や旧家を保存しようという動きは感じられないものの、その価値は十分にあると思う。
 











親柱に「界橋」「大正十三年」の文字がある 町境に位置していたか

2019.08再訪問時撮影

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訪問日:2003.08.15
2019.08.12再訪問
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