可部の郷愁風景

広島市安佐北区<商業町・街道集落> 地図 
 町並度 5 非俗化度 6  −街道の集結点・川運の拠点として商業も栄えた−





可部三丁目の町並 折り目と呼ばれる街路の屈曲が見られる

 
 
 戦国時代には高松城の城下町として存在していた可部の町は、物流が盛んになるにつれ次第に商業町的性格を強めていった。この頃既に市が立っていたとの記録があり、中世前期には本通筋5町とよばれる町場が整えられた。これが現在国道の東側に延びる旧道筋である。
 江戸期に入ると、出雲・石見からの街道が太田川の水運に変わる結節点として賑わいを見せた。町の北側は山地が迫り、山陰地方のみならず山陽側内陸部の農村地区の物資もここで積下ろされ、多くが水運に委ねられた。
 瀬戸内地域からは塩や肥料としての干鰯、保存食としての塩鰯などをここで船から積上げ、反対に山村からの農産物、煙草や筵などの製品が積出され、またそれぞれ売買された。可部の町では諸職人よりもこうした物資の取引を主体とした問屋や商人が主力を占めており、水陸の交わる交通・経済の要としての重要な町場であった。この発展はもちろん、広島城下を控えた地にあったことも、また大きく寄与していたことだろう。
 
 



 
 街道裏手の土蔵群
 

 
 産業としては酒造をはじめ、中国山地一帯で産出される砂鉄がここで中継されたこともあり、風呂釜・鍋・釜など鋳物業が盛んであった。
 この旧本通筋に従い平入りの伝統的な町家があちこちに残る。特に防衛対策のため町のほぼ中央に設けられた、当地で折り目と呼ばれる枡形のすぐ北側では、現在でも連続した古い町並として評価できる質と量が保たれている。軒線に程よいばらつきがあるのは建てられた年代、または各家の財力の差によるものだろう。それがまた良い味を出している。
 近世の可部町は街路沿いに九つの小路が派生していた。味噌小路、辻村小路などと呼ばれたそれらの小路は、今は知る人も少なく、風情を嗅ぎ取ることも難しい。だが現存している商家は、それぞれ旧い構えを頑なに受継いでいる。

   街道沿いは国道の抜け道ともなっているため非常に交通量が多く、落着いた町並探訪は難しい。しかし周囲の丘陵地まで住宅団地の開発が及んでいる一方で、幹線国道のすぐそばに古い町並が残っていることはある意味奇蹟的でもある。
 地区では古い建物や町並を意識されており、旧家を改装し売店や食事処とした施設、喫茶を併設した商家などが見られ、また町全体でも定期的に催し物が開かれている。一方で、一軒また一軒と建物が壊され、更地になったりと訪ねる度に少しづつ伝統的な建物が失われているのに気付く。旧道沿いの南半分は既に古い町並としてはほとんど残っていない状態となっているが、折り目付近から北側ではまだ健在である。また、付近の裏手の土蔵群も見物で、これも商業の繁栄を証明しているようである。
 可部三丁目の旭鳳酒造


 
可部三丁目 町家を改装した「可笑屋」 
 

 

 可部三丁目の町並 可部二丁目の町並 

2023.09最終訪問時の画像  旧ページ

訪問日:2001.11.18
2023.09.16最終訪問
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