橋立の郷愁風景

石川県加賀市<船主の邸宅群> 地図
 
町並度 6 非俗化度 4  −北前船船主集落−
 
 加賀の海岸線は砂丘地帯が多く、円弧を描いたようになだらかである。その中にあってこの加賀市橋立の周辺は幾分か出入りがあり、港の立地に格好な地形であったようだ。江戸期から明治にかけて北前船と呼ばれ大阪から西廻りで日本海を北上した商船の船主が、この地に大きく台頭した。


 
橋立漁港 小さな入江を掘り込んで造成したと云われている


 
 

   


 


 
元北前船主酒谷家の屋敷・蔵六園  北前船の里資料館 これももと酒谷家の屋敷の一部 


 
 寛政8(1796)年には船主34名と船頭8名の居住記録があり、この頃から北前船にかかわる者の居住する集落となっていった。
 橋立は明治・大正時代に日本一の富豪村と称されていた。年間数万円の収益を挙げた船主が何人も居り、当時の商人の年収が平均数百円であったことを考えるとまさに桁外れの豪商達である。大聖寺藩は「百万石の分家」ということで格式にこだわり、浪費家の藩主が続き、財政が逼迫する度に彼らに献金を求めたという。藩にとって橋立の北前船主の存在は得がたいものであり、有力な船主を士分格に登用したりもした。中には武士として大聖寺城下に居を移した者もいた。
 
   
 



 
元北前船主・増田家と付近の町並


 この橋立には現在でも十余軒の船主屋敷が残存している。代表的なのが蔵六園として公開されている北前船主・酒谷家の屋敷である。通りを挟んで蔵が7棟、敷地は板塀に囲まれ、この一軒で町並を形成している。建具は全て紅殻塗りとなっており、藩主専用の便所は漆塗りという端部まで贅を極めた豪邸であった。蔵六とは亀の異称で、藩主が亀とそっくりな庭石に目を留めたことが由来と云われている。
 現在残るのは明治5年の大火後の建物で、土蔵など火に強い構造が採用され、一層豪壮さを増した家並となったという。多くは座敷につながる内蔵も備えている。
 重要伝統的建造物群保存地区となっており、特に集落の成因や個々の邸・建物の構造といったところが貴重なものと言えるだろう。
 


2021.03再訪問時撮影       旧ページ「橋立・瀬越の郷愁風景」

訪問日:2003.11.02
2021.03.27再訪問
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