和歌山県田辺市<城下町・港町> 地図 町並度 4 非俗化度 8 −紀伊半島南部の中心地− |
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中屋敷町の町並 | |
田辺市は紀南と呼ばれる県南部を代表する都市で、歴史は中世の城下町に遡る。町は16世紀末にはその原型が整えられていたといわれる。関ヶ原の役後に田辺に入ってきた浅野氏は現在の市街西側を流れる会津川の河口部分に城を築き本格的に城下町を造成・経営した。城に近い砂丘地帯に武家地を配し、周囲の低平地に町人地を置き、町外れに寺院を置いて防御した。 元和3(1617)の一国一城令により廃城となったが、和歌山城主であった徳川頼宣の家老であった安藤氏が田辺に入り引続き政務を行っている。浅野氏の都市計画を引継ぐ形で城地の周りに二重の濠を巡らすなど、その防御体制を固めている。 田辺は紀州藩内で和歌山城下以南で初めて外海に面する港ということもあり、中世には水軍の拠点ともなっていた。港湾として重要な地位を占め和歌山城下をはじめ大坂、徳島や備前などとを結ぶ海運が開かれ特産の木炭などを搬出していた。これは田辺炭と称され江戸市中でも珍重されたのだという。 また陸上交通の面でも熊野街道の要衝となり、熊野詣でを終えた旅人が休泊するところとして大きく賑った。 政治経済そして交通全ての点で紀伊半島南部の拠点として揺るぎないものをこの田辺が担っていた。 現在の町並にそれらの歴史の面影は淡くなっており、所々に古い建物が残っているといった現状だ。その中で本町・紺屋町といった城下町由来の町名が残り、またそれを取り巻くように屋敷と付く地名が見られる。そのひとつ中屋敷町付近では土塀や門などが残り幾分か武家地の趣が感じられ、明治以降も博物学者南方熊楠旧家など文化の中心であっただろうことがわかる。 栄町・北新町・南新町界隈では飲食店街に混じり商家や旅館などがやや古い町並を残し、北方面に伸びる高雄地区に向けて連なっている。これは城下へ出入りする街路だったのか、色々想像されるところである。 |
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南新町の町並 | 高雄一丁目の町並 |
反対側の海に近い上屋敷地区に向うと料亭が目立つ一角があり、その先には田辺新地と呼ばれる遊興色を帯びた街区があった。この地区は事前知識もなかったので田辺の町に対して新たな認識を持つものとなった。前回は出張で泊った翌朝にざっと歩いただけであり探訪として不十分だったこともあるが、やはり再訪というのは大事であると感じた。 |
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福路町の町並 | |
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上屋敷三丁目の町並 | |
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訪問日:2009.12.21 2024.09.16再訪問 |
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