吉舎の郷愁風景

広島県吉舎町<街道集落・商業町> 地図 <三次市>
 町並度 6 非俗化度 7  −銀の道に沿って開けた商業の町−




 

 
 

 

吉舎(七日市地区)の町並 
 

  
 
県の中央やや北東寄り、三次盆地の外れに吉舎町はある。町名の由来は当地の古代の地名、皇后の所領を指す私部(きさいべ)に由来する説、鎌倉時代に後鳥羽上皇が隠岐に遠流される途中に、この地を通り「吉(よ)き舎(やど)りかな」といわれたという説である。市街地のマンホールの蓋などにもこの文句が刻印されている。いずれにせよ歴史的には相当にさかのぼる町である。 
 中世に至ると、吉舎は次第に街道集落としての重要な役割を占めるようになる。尾道より高野山領であった太田荘(現甲山町)を経て三次に通じるルートの中で、平野部への玄関口である吉舎は交通の枢要で、物資の集うところとなった。自然発生的に馬洗川の西岸に市が立った。その後南寄りの東岸部にもかつての古市に対し七日市・四日市という市が発達した。
 江戸期に入ると、街道は石見銀山(島根県大田市)と瀬戸内を結ぶ石見街道、通称銀山街道の沿道で、吉舎は後になって備中笠岡へ向けて開かれた新しい街道との分岐点となり、宿駅となった。銀の輸送部隊は相当なもので、約400人、300匹の馬をもって輸送されていた。その際この吉舎で昼休みを取るのを例とし、宿泊することもあったという。一方、瀬戸内から逆に北に向う荷は塩で、「塩の道」とも言われた。
 
橋のたもとにある旧写真館の建物  
 

四日市地区の町並


 伝統的な家並は七日市地区を中心に見られ、大柄な商家風の建物が幾棟も残り往時の繁栄を偲ばせる。小規模ながら袖卯建を両端に構えた旧家、立派な門を持つ建物も見られる。四日市との境となる馬洗川に架る巴橋付近が賑わいの中心で、北のたもとの位置にはひときわ目を引く洋風の建物がある。昭和3年に写真館として建てられ、当時は三階建は珍しく屋上からの眺めを求めてくる客も絶えなかったという。南詰には造り酒屋が厳かな構えを見せていたのだが、最近廃業され更地となっている。
 町を歩いていると屋号などを記した暖簾のかかった御宅や店が目につく。初回訪問時には見なかったもので、訪れるたび徐々にその数が増えてきている。地元の方々が旧家や町並の貴重さをよく認識されている証拠のようだ。実際造り酒屋以外は更新された箇所は少なく、古い姿がよく保たれているものと感じる。


 
 
屋号などを記した暖簾があちこちに見られる 

2021.10最終訪問時撮影    旧ページ


訪問日:2002.12.01
2021.10.16最終訪問
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