松永の郷愁風景

広島県福山市<産業町> 地図
 
町並度 4 非俗化度 8  −塩田・下駄生産で栄えた町 木材搬入のための運河が残る−




 
松永町五丁目(羽原川沿いの風景)


 現在は福山市の一部となっている松永地区はかつて備後国沼隈郡に属し、万治3(1660)年に福山藩士本庄重政が干拓に着手、塩田が開かれた。寛文の頃(1670年頃)には製塩が軌道に乗り、庄屋も置かれ公事も行われたという。当時既に栄えていた竹原の塩浜や、他国からの移住者も多く、金山の入植者によく似た様相を示したといわれている。藩も塩田経営に積極的であり、福山城下から寺を移転させたり、住民に米穀を自由に買い占めることも許可していた。平常は農業の他男女とも浜で塩担ぎなどに従事し、まさに藩政期の松永は塩田によって発展を示していたといえる。商い先は主に北陸、越後、奥羽などの北国筋が中心で、これは西廻り航路によって搬出されたものと思われる。
 明治期に入ると塩が専売制となり、暴風雨時に潮水が流入して砂礫が堆積して全滅したりと、衰退期に入っていった。しかしその頃から今に知られる下駄の生産が塩にとって代った。明治20年頃府中や島嶼部などの木材を利用して細々と行われていた履物業は、大正期に入ると製塩業を凌駕する勢力を持ち、また商家も多く魚を売り歩く商人も多かったという。松永の隆盛期である。
 履物業については、原料は最初桐であったが後に北海道産の栓材を移入して生産性を向上させている。この頃までには機械化も進み、県内産の杉や松も使用するようになって生産量が急激に増加している。昭和初期には木履関係者の比率は20%近くにも達した。
 下駄の材料になる木材を運び込むには都合が良かった。塩田時代に海水を取込むための運河や水路が縦横に巡らされており、それを利用して筏を組み工場に搬入される。現在は埋立てられた里暗渠化しているものも多い中で、市街地の南東にあたる松永五丁目の羽原川沿いに当時の面影が残っている。家々が支柱をもって川面に張出した独特の景観が見られ、往時を偲ばせてくれる。
 




 松永町五丁目の町並



 古い町並の景観は山陽本線を挟んだ松永二丁目付近にも面的に残っている。こちらは山陽道の沿道にも近く各種商業が発達したものと思われ、商店の姿が多い。とりわけ目立つ存在が小さな辻に建つ木造三階建だ。どことなく洋風の匂いを感じる佇まいで、面取りされた角部の窓の意匠には遊び心も感じさせる。
 また地区全体にわたって、古い井戸があちこちに残っているのも印象深く、生活水として利用されているものもあった。


 松永町二丁目の町並




 松永町二丁目の町並


※2022.08最終訪問時撮影
   旧ページ
訪問日:2004.01.04
2022.08.16最終取材
TOP 町並INDEX