奈良市街の郷愁風景(2)

- 元興寺より猿沢池にかけて(北部)-

奈良市<寺を中心とした商業都市> 地図 
 町並度 5 非俗化度 2  −奈良公園の近辺に古い町並
 





 (左)勝南院町 (右)東城戸町の町並 商店街や繁華街に近いこの一帯にもあちこちに古い町並が見られる  



今御門町の町並



元林院町の町並
 

 奈良はいうまでもなく歴史の古い都市で、その詳細については省略するが、古い町並としても広域にその姿を残している。その付近を通称奈良町という。行政区画上は存在していないが、名称自体は慶長期(17世紀初頭)に遡る古いもので、関ヶ原の役後、徳川家康の命により大和を支配下に置いた大久保長安が町場として再整備した際に確定したものである。奈良町100町といわれ、現在も街路が交錯し由緒ありそうな町名が狭い範囲に多数残っている。この辺りが奈良の古い町である。
 この付近は奈良時代には驚くことに全て一個の寺の境内といっても良い地区であった。中心をなす元興寺は日本最古の寺といわれる飛鳥寺に由来する。平安時代に長岡京に遷都したことや、火災や戦災で規模を縮小し、境内地は次第に町家が立地しはじめる。町衆は自治的権力を持ち、江戸時代にかけて門前町だけでなく商業も発達した。しかし元興寺をはじめ、以後に分派した小さな諸寺は今でも多く残っており、現在もこの町に住む住民の信仰心は強く、やはり寺を基盤に育まれた町である。小刻みに付けられた町名にも寺の文字が多く見え、その他院・門などを付したものが多数見えることからも、旧市街全体が寺との深いかかわりを持っていたことがわかる。
 中世から都市といってよいほどの人口の集積を見たこの町は、屈指の商業町でもあり、中でも元興寺の南側一帯は商工業者が集積し、14世紀頃には既に町場化していたといわれる。やがて町のあちらこちらで市が開かれるようになり、座と呼ばれる特定の品物を売る商人組合も多数生れていった。座の数は米や麦をはじめとして生活品など80種以上にも及んだという記録もある。
 江戸時代を迎えると、「奈良晒」を代表とする産業の町としてその名を全国に知られ、元禄期の東大寺大仏の再建を契機に観光目的で訪れる者も増えるなど、一大商業都市としての奈良の姿が確立された。
 さて、旧市街地を示す奈良町の範囲は、当初の100町から後に興福寺領の高畠(高畑)、木辻、三条の周辺諸村も含められ、さらに奈良奉行の支配下にあって奈良廻り八ヶ町と呼ばれた京終村はじめ周囲の村
々も奈良惣町とよばれ広義の奈良町に含まれていた。広範囲に及ぶため、ここではそれらの町並を三つに分け、町の風景を紹介する。
 古い町並として最も良く残るのは元興寺の南側一帯で、中世より商業の盛んであった地区と一致する。平入り、切妻袖壁付、一階部の荒い格子、二階部の虫籠窓などがその特徴で、典型的な当時の商業町の町並が現代に語り継がれている感がする。特に中新屋町から芝新屋町にかけての界隈は連続した町家が妻部を少しずつ見せながら雁行して並ぶ風景が印象的だ。通りは直交する箇所は少なく、少しずつずれているのも、古い都市計画を見るようである。防衛上の狙いがあったのだろうと思われる。
 この旧奈良町界隈は奈良盆地の東の縁端であり、東に高く西に低い東高西低の地形をなしている。そのため意外と坂道が多く、急坂に近いところもある。そのような所に町家が所々残っているさまは風情充分である。その坂に逆らって少し東に歩を進めると、やがて土塀があちらこちらに残る住宅地が開けてくる。この高畑町界隈は春日神社の邸町で、北側は奈良公園の緑地帯を控え、東側は春日山・若草山と連なる丘陵地帯となっていて、閑静でいて厳かな雰囲気の感じられる一帯であった。高畑町の町域は広く、西側は市街地中心と同じく町家中心の町並が展開する。
 一方、北部の興福寺や猿沢池に近い辺り、観光客の往来が多く商店街もある一帯にも古い町並は残る。古くから開けた観光都市奈良の匂いの濃い地域で、それを象徴するのが元林院町界隈であろう。興福寺の別院という意味が町名の由来だそうだが、明治初年より芸妓町として華やぎの中心だった町で、大正から昭和にかけて遊興の町として位置づけられた。中でも小路に残る絹谷家の主屋は、寛保2(1742)年の建築という奈良でも最も古い部類に属する町家である。近代的な旅館や商店が連なる一角のある一方で、一歩路地に入ると渋い町並が展開する地区であり、奈良の市街中心部にいることを忘れさせてくれる。






元林院町の絹谷家付近 脇戸町の町並

奈良市街の郷愁風景1 奈良市街の郷愁風景3

※文章内容は共通です。

訪問日:2007.01.02 TOP 町並INDEX


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