西市の郷愁風景

山口県豊田町<市場町・宿場町> 地図 <下関市>
町並度 4 非俗化度 8 −豊田地区の中心地として繁栄を続けた町−




豊田町西市の町並 


 この豊田町付近は中世より市場が盛んに興った場所である。西市という町の中心集落もその名残を留める地名だ。
 木屋川中流域に開ける盆地という地理的優位さによりまず開けたのは、西市よりやや下流側の中村地区であった。川を挟んで東の市、西の市といった。西の市は度々河川の氾濫の影響を受けたため、江戸期になって上流側に移り、これを今市と呼んだ。その後この今市は寛永3(1626)年より西市と改称され、かつての西の市は古市と呼ばれるようになったという。なかなかややこしい。それだけ盛んに市が立っていたのだろう。
 流域の上流側からの各種産物が集まり、「地下上申」によると「市日二日、十日、廿一日、毎月興業市立申候」とあって、月に六度の市が立っていたことがわかる。
 また幕末より魚市場が発達し、1日おきに競りが行われ、仲買人も30余軒を数えた。内陸のこの土地で魚市場とは奇妙だが、西は響灘、北は日本海からの街道が合流し、近隣の農村への魚介類の供給地として大いに賑っていたという。この頃には城下町長府から転任し、酒造業を営んでいた中野家の事業により、木屋川が荷船の遡行が可能なまでに開削され、豊田地方の発展を一層高めた。
 中野家はこの西市村において本陣も勤めていた。幕末期には赤間関と長府、俵山(温泉)、正明市(長門市)とを結ぶ赤間関街道(通称北道筋)の宿駅としても指定されており、萩藩の大名等の休泊もあったのだろう。
 



 西市の古い町場は現代になって商店街となり、伝統的な姿の建物はそれほど多くないものの、長門らしい赤瓦の印象的な町の風景であった。前回探訪時から14年を経ての再訪であったが、街道筋を表すささやかな看板が立てられたりしており地元が意識されている様子が伺える。但し、たまたま見逃したのか失われたのか、前回訪ねた時に印象に残った建物が見られないなど、若干の変化はあったようだ。しかし一方、古い旅館の建物を発見するなど、価値のある再訪ではあった。閉業されているようだったが木造三階の堂々たる姿はこの町の繁栄を物語るもののようだ。
 古い町並から木屋川を挟んだ対岸には、西の市の名を取った道の駅が整備されており、入浴施設などもあり訪問客で賑わっているようであった。


木造三階の旅館建物(営業はされていない)




   
 



 


2020.09再訪問時撮影     旧ページ

訪問日:2006.03.19
2020.09.01再訪問
TOP 町並INDEX