特別企画 

旧山陽道を辿る(1)

 
1. 赤間関〜長府(二里)  付近地図
 
 山陽道の西の起点は亀山神社鳥居下にある「山陽道」の石碑から読取れる。門司大里から海上一里、「長門国豊浦郡赤間關」からまさに始まり、大阪までの50余宿が存在していた。近世には「西国街道」などとも呼ばれたが、「五駅便覧」では正式には「中国路」と呼び、藩幕体制下の位置づけはあくまで「脇街道」であった。これは瀬戸内地域は永らく海路が主体であり、江戸後期になってから参勤交代時等にも陸路を経由する例が増し、幕末になりようやく主要街道並の交通量となったためであろう。
 山陽道は関門橋の下をくぐる辺りまで国道2号線に吸収されている。その丁度橋の真下付近に、朱色の木の高欄だけが残る「御裳橋」が残る。この周辺は火の山をはじめとする山塊が海に没する地形、山陽道は波打際を通っていたのだろう。この御裳橋はその当時土橋で、今残る木橋は大正15年に架けられたものを移設、または復元したものであろう。
 長府を前に山陽道は低い峠を越える。ここで初めて2号線と別れる。現在の県道長府前田線で、今では車で通るとなだらかな起伏の道だが、徒歩の時代には難所であり、駕籠立て場があったといわれるが、今は往時を語るものは全く残っていない。

 
 山陽道の基点付近、唐戸地区には港町下関らしい近代建築も残っている。しかしこれらは山陽道が役割を終えて以後の建築。 山陽道の基点の碑が亀山神社に残る。側面には「長門国豊浦郡赤間關」と刻まれる。
 明治時代頃までのかつての写真を見ると、この亀山神社の石段下は波に洗われていた。現在は目の前を国道が通過し、観光客向けの商業施設が団体客を迎え入れている。 国道沿いに高欄だけが残る「御裳橋」。今は関門人道トンネルの入口で、頭上には長大な関門橋が架かっている。対岸は門司。



  2. 長府〜小月(二里)  付近地図
前田から小さな峠を越えると城下町長府に至る。 長府の練塀の町並(山陽道の北側の古江小路)
 
 毛利藩の城下町長府は現在でも土塀などに当時の面影が強く残っている。山陽道はここで、城下の西をかすめた後、直角に折れ南側を横断している。城下の中央を主要な街路が横切るのは珍しいことである。
 武家街を取り囲むように通過する街路沿いは、町人街に計画されたという。
 長府から先、山陽道は国道2号線と、現在のJR山陽本線を挟み反対側に延びている。城下町を出外れても所々に立派な門を構えた旧家が点在する。これらも武家に関係のあった家柄であったのか。


街道集落の名残が見られる小月の町 「見回り通り」の町並
 瀬戸内海に流れ込む木屋川の河口に位置する小月の町。自衛隊の町として知られる現在の顔とは違い、かつてはここに半宿が置かれ、河口港としても栄えていた。一部は国道491線に吸収されながらも、所々に妻入りの町家、屋敷型の大きな旧家などが見られる。
 国道に沿った位置に保存されている道標の付近は当時駕籠場、明治期になっては人力車の溜り場として賑わった所。また、この町の中心下市は宿屋街、茶屋は歓楽街として栄え、武家が治安維持のため見回りを行っていたため「見回り通り」と呼ばれていた。

国道491号線沿いに残る道標


3. 小月〜吉田〜厚狭(四里)
 付近地図1  付近地図2
吉田の町並 追分の道標。折目を修繕した跡が..。


東行庵
 小月から山陽道は木屋(こや)川を遡る。川としてはそれほどのものではないが、地域の物資輸送上重要な役割を占めていた。川沿いに出て1kmほど上流にはその名の通り木屋という集落がある。今では赤瓦の古びた建物が散在する小さな集落であるが、ここで米や木炭等は川船から帆船に積替えられ阪神方面に向ったという。
 その木屋川を初めて渡り小さな盆地が現れてくると吉田の旧宿場である。ここは明治33年の大火でほとんどが消失し、新しい建物に混って残る古い建物も多くがそれ以後のものである。ここは萩へ向う赤間関街道が分岐する所で、追分には「右上方道 左萩道」と刻まれた道標がある。中央やや下側から別の石材で継いだような跡がある。これは30年ほど前、車にぶつけられて折れてしまい、応急処置をしたとのこと。車社会にとっては、かえって邪魔者の無用の長物なのであろう。しかしこうして補修しながらも残されている地元の方に感謝したい。

 吉田から次宿、厚狭までは往時の道を辿ることはほとんど不可能である。林道と化しており、少なくとも車では通れないらしいので山陽町埴生に抜ける県道を代替道とした。吉田の町を出外れると、明治維新回天の軸となり若くして生涯を終えた高杉晋作の墓の周辺が池を配した小公園として整備されており、愛人が墓を守ったと言われる庵が「東行庵」として残っている。吉田では晋作のことを東行と言った。


4. 厚狭〜船木(一里八町)
 付近地図
厚狭川を渡る鴨橋 橋を渡ると寺院を思わせるほどの立派な屋根を持つ旧枝村家がある。
橋の袂に小さな道標を発見「右 あつ 左 はぶ 下の関」とある。
 今や新幹線も停車するようになった厚狭の町。しかし駅前の風情は、新幹線停車駅というイメージからは全くかけ離れたような町並が、旧山陽道に沿って連なっている。
 厚狭市と呼ばれていたように、ここには定期的に市が開かれ、宿場としても半宿ながら、その市の賑わいもあって繁栄は本宿同様であったという。
 かつての宿場街はそのまま商店街となっているが、その商店の佇まいがまた風情ある。年季の入った木造の金物屋、造り酒屋の土蔵を改造した酒舗、幾時代か前の商店街という雰囲気である。
 厚狭川にかかる鴨橋に追分の小さな道標が、蹴飛ばされそうに残っている。橋の向かいには、秀吉の朝鮮出兵の折に宿舎となったといわれる旧枝村家。大庄屋を勤め、寺の本堂を思わせる大きな屋根が威圧的でもある。ここも今は店舗となっていた。
 

船木宿の旅人荷付場跡
船木の町は時代が数十年遡ったような懐かしい佇まい
 
 厚狭宿から次の船木宿までは旧道は再び道なき道となる。しかし国道2号線と着かず離れずの距離であるので、ここは国道を一気に通過する。西見峠、車の身には何のことはない小さな峠であるが、徒歩の時代の旅行者にとっては難所であったに違いない。この峠は船木宿の「一番遠見」であったという。九州の大名が江戸に上る際、見張番が「一番遠見」「二番遠見」と順に知らせる。西見峠と言う名もそこから名付けられたものか。
 船木の町並は今回の中では最も宿場時代の面影を残している。街道集落に見られる一本道に沿う細長いものではなく、裏手に水路が走り、そこにも家並が展開する。裏路地の町並は多くは残っていないが、水路はいまでも流れをたたえ、情緒溢れる佇まいだ。間口により税金を徴収されていた過去の名残から、町場でよく見られる鰻の寝床状の奥行の深い家々である。
 山陽道は妻入りの旧家が多く残る旧宿場街を抜け、旅人荷付場跡(馬子や駕籠かきを配し、旅人の中継地)付近で新しい県道を跨ぐと、岡崎八幡宮に向けて緩やかな上り坂になる。


5. 船木〜山中(二里半) 
付近地図
岡崎八幡宮鳥居前付近の旧山陽道  国道を走る車からは旧山陽道を思わせるものは少ないが、長門特有の赤瓦を載せた小集落が点在する。
 岡崎八幡宮は、全国でも4軒しか許可されていない清酒醸造を行う貴重な神社である。丁度初詣の準備中で、神社の人に聞くと初詣と祭の時以外は一般の人に振舞われることはなく、しかも外部に持ち出すのも原則禁止とのこと。旧山陽道はその鳥居前付近から本来の道幅となり、丘陵地帯に入って時折国道に吸収されながら続く。
 宇部市域に入り、瓜生野という厚東川沿いの小集落にある銘酒「男山」本店前には、最近まで街道松が残っていたと聞くが今は取り払われていた。街道に松などを植えさせたのは織田信長が最初と言われ、路面より少し土盛した上に松をはじめ柳、杉などを植え、夏は木陰に、冬は風除けとして旅人を助けた。街道の目印にもなった。現在、道路拡幅等によって交通の邪魔になったり、枯死したりして、街道松が残ることは極めて稀になっている。今回果たして全体で何本見られるだろうか。

 
 瓜生野集落、厚東川に沿う酒造屋。近年まで街道松がのこっていた。
山中の町並。街道集落らしく一本道に沿い古風な民家が点在している。
 
 山中の旧宿場街はすぐそばに国道2号線が走っているとは思えない静かな、そして小さな集落であった。本陣のない半宿である。河川の流域からも離れ、周囲を低い山々に囲まれた丘陵に位置し、生活の道といえば炭焼くらいしかなかった。しかし街道の往来が増し、幕末頃はかなり大きな宿屋も出来て大層賑わっていたという。
 人通りのない山中の町並は、平入りの町家が数軒、そして塀を従えた重々しい屋敷型の邸宅も残るが、家々は所々歯抜けになっている。
 ここは長門国東端の宿駅、間もなく周防国との国境を越え小郡宿に至る。 
(→第二回へ)

   (2003年12月28日取材)

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