新地町の郷愁風景

山口県下関市<花町・商業地> 地図
 
町並度 5 非俗化度 9 −港町の歓楽街−







上新地町四丁目の町並 この地区を象徴する路地風景が展開する 


 下関は言うまでもなく古くから港町として発展を続け、海運を通じて海外にも早くから門戸を開いていた。
 藩政時代には長らく赤間関と呼ばれ、維新後市政が敷かれても当初は赤間関市であったが、後に下関市と改称されている。眼前に関門海峡を見、九州と対峙するこの町に海運の拠点が発達するのはごく自然なことで、市街地東部の唐戸地区には洋風建築も多く残り、幕末・明治期から近代的な都市が形成されていたことを証明している。
 ここで紹介する地区は下関駅を挟んでその唐戸地区とは反対側で、遊興の地として栄えた新地町を中心とした地区である。現代になって下関駅の東側が大きく町の中心として開発され、西側や北側はさほどの開発を見なかったため、この古い繁華街は大きく破壊されることなく面影を残している。
 新地町には明治初期から新地小屋という芝居小屋があり、後に大黒屋と改称され明治15年まで存在していた。それを引継ぐように戎屋など複数の遊興施設が出来、大正から昭和戦後しばらくまで映画館なども設置され、市民の娯楽の中心地であった。
 また港町の歓楽地として、遊郭も置かれ新地遊郭と呼ばれていた。
 現在でも大通りから路地に入ると、置屋建築のような独特の建物が残り、町並景観を特徴付けている。2階部に木製の手摺を設けたものや、2階正面が銅板で葺かれたもの、玄関周りにタイル貼りを施したものなどである。この付近は戦後の新しい都市計画に捲き込まれることは一切なかったらしく、無秩序、複雑に路地が交錯する。中でも上新地四丁目付近に残った路地は連続性が高く、短い区間ながらも非常に雰囲気ある一角であった。

 



上新地町三丁目の町並



 掲載しているのは十数年ぶりに再訪した時の画像であるが、前回と比べて大規模に失われた建物は少ないように見えた。このような町は歴史的な町家建築群等とは異なり、貴重さが認識されにくくいつの間にかなくなってしまう例も多い中で、珍しい例ともいえるだろう。しかし今後もこのままである保証はもちろんなく、やがては遊興の地であったことを示す痕跡が淡くなっていくのは間違いないだろう。




新地西町の町並


 

 新地西町の町並

上新地町五丁目の町並 

※2019.10再訪問時撮影

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訪問日:2006.03.19
2019.10.14再訪問
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