下津井の郷愁風景

岡山県倉敷市<港町> 地図
 町並度 6 非俗化度 4
−瀬戸大橋のたもとの町はかつて西回り航路の重要寄港地として栄華を極めた−
 





下津井一丁目の町並 右は「むかし下津井廻船問屋」


 瀬戸大橋を渡る列車が児島からトンネルを抜けて海上にさしかかる時、右手に渋い瓦の波が見下ろせる。ここがかつて瀬戸内有数の港町で交通の要であった下津井の町である。
 町は橋のすぐそばから田ノ浦、吹上、下津井と海岸に沿って細長く続き、山裾に向っては細い路地の走る、港町独特の姿である。吹上地区を中心に古い姿が残っていて、港に沿った通りの一本北側の細い通りには、平入で中二階、軒を揃えた家々が連なる。
 下津井の町の興りは意外にも城下町からである。慶長11(1606)年徳川家康は岡山城主池田氏に内命し下津井に築城させた。諸国の小さな城を廃棄させていた時代に異例のことであった。町の背後の山に城郭を築き、城下町を形成した。海路を守らせ、加子(有事の際に軍船に徴用できる水夫)を配置した。しかし一国一城制の浸透により、この城の寿命はわずか34年で、城下町も大きく発展することなく役目を終えたという。
 その後しばらく停滞期が続いたが、中世末期になり藤戸海峡(現在の倉敷市藤戸町)が土砂堆積著しく大型船の通過が困難になったので、航路は児島の南を通過するようになった。以後次第に、下津井は港町としての発展を示すようになった。




下津井一丁目の町並




下津井吹上の町並
 



 
 下津井田ノ浦の町並

 

 18世紀になると北前船も寄港し、北海の産物と当地で盛んだった綿、そして塩を交換した。北海の産物とは綿作に必要な鰊粕などの肥料だったという。港には問屋が建ちならび下津井は隆盛期を迎えた。
 またここは四国への連絡港としても栄え、金毘羅参詣の窓口になり、大正には茶屋町との間に軽便鉄道も敷かれ、田の口-下津井-丸亀と結ぶ航路は四国への大動脈であった。しかしその後宇野-高松を結ぶ国鉄航路に客を奪われ、近年では瀬戸大橋の開通、軽便鉄道の下津井電鉄の廃線と、下津井の活気は急速に薄れていった。
 下津井港に近い一角に「むかし下津井廻船問屋」という施設がある。復元された廻船問屋の屋敷だが数少ない情報収集源である。江戸期に金融業と倉庫業を営んでいた西荻野家住宅を明治初期に廻船問屋の中西家(屋号高島屋)が買取ったもので、ニシン蔵等も多数有していたという。この周辺の町並は問屋の並んでいたかつての賑わいを感じさせる雰囲気が残っている。
 付近には商家・町家建築が断続的に残り古い町並らしい風景が展開している中で、一部の建物は手が加えられ保存に向けての動きが見られた。初回訪問から既に20年ほどになるが、大きく町の風景が変わったという印象はない。地元の方々の高い意識のお蔭だろう。
 吹上地区に向け街路は緩やかにカーブを続け、家並が海岸線なりに巡っていたことを示している。吹上地区では大柄な土蔵を何棟も従えた商家が印象的である。一方、田ノ浦地区は立派な建物が少なくなる代りに漁家を思わせる建物が密集し、細い谷奥まで家並が連なる風景が見られる。ここまで来ると、瀬戸大橋の橋桁が真上に望まれる。

※2022.12最終訪問時撮影    旧ページ

訪問日:2001.09.09
(2022.12.11最終訪問)
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