第2号 (02.09.30発行)

鞆に見る古い港町の模索(1)

    

   関連ページ 鞆の郷愁風景

 瀬戸内海交通の要であり続けた鞆の津。ここは瀬戸内の港町の中でも屈指の古い町並を残しています。
 一方、交通手段が海上から陸上に移った今でも、町並中心部を走る交通量の多い県道は当時の狭いまま放置され、交通渋滞、歩行者の危険をはらんでいます。また江戸期の古い建造物の多くは、重要伝統的建造物群保存地区の指定が大幅に遅れ保存の行き届かぬまま朽ちていき解体される例も多くなっています。
 私はこの町を何度か訪れ、その都度違った目で歩きまた発見することも多く、課題を背負っている姿が浮びあがってきました。また、9月20〜22日まで、全国町並保存連盟主催「全国町並ゼミ鞆の浦大会」が催され、その最終日に臨席し若干の知識を得てきました。そこで今回は、ちょっと堅い話題ですが、鞆の浦を例に港町、そして古い町並の抱える課題と解決策について触れたいと思います。
 二回に分けて、今回はまず鞆の町の現状・問題点をお伝えします。
  私自身研究不足であるので私見は提示するつもりはありません。また、地元の方には既知の内容となる部分が多いことを予めおことわりしておきます。

常夜灯と雁木
 

 鞆の浦は古くは万葉集にも登場する非常に歴史の古い港町である。江戸期の瀬戸内海上交通の中でも主要な位置を占め、朝鮮通信使ゆかりの対潮楼、船着場の雁木、常夜灯、焚場(注1)など港町としての遺構が余すところなく現存しておりそれは全国唯一と言って良いものである。港を取り囲んでは最古のもので元禄年代に遡る建築が現存し、名産保命酒を中心とした商家、網元の家、船大工の家並などが残っている。その町割は間口が非常に狭く奥行の広い中世の大都市型であり、今でもそれが残っていることで、我が国でも非常に貴重な古い町並であるといえる。
 (注1)現在の造船業のドックにあたる構造物。当地のものは千石船も扱えるほど規模の大きいものであり、現存していることも極めて貴重である。

 
港町らしい姿は見落としがちなところにも随所に隠れている(船板を使った土蔵)。このような光景は今でも普通に見られる。
 

 しかしこの町並区域は重要伝統的建造物群保存地区(注2)(以下、重伝建)ではない。これをまず意外に思う方々も多いであろう。実は、この町の重伝建へ向けての動きは、1975(昭和50)年に文化庁の重伝建の調査地区に選ばれた時にまで遡る。以後数回にわたり調査が進められたが、実現には至っていない。この間に建物は痛み続け、ここ3年間だけでも10軒前後の伝統的町家が解体されたと聞く。重伝建の申請を予定している地区は港湾部を中心に8.6haであり、保存対象となる建造物は実に280戸余りとされる。三浦正幸・広島大学教授(文化財学)は7月末に鞆公民館で行われた「鞆町並み保存講演会」の中で、ここ5年ほどの調査でこれらの建物の多くが無住または高齢化世帯であったことに触れ、このまま重伝建選定が遅れると30年で町は滅亡すると危惧の意を表した。では、ここまで選定が遅れている理由は何なのだろうか。
 (注2)国が文化財保護法に基いて伝統的な家屋の多く残る町並を保存する目的で選定した地区で、現在全国60箇所余りがある。地元自治体が伝統的建造物保存地区を定め、国が重要度が高いと認定した場合重伝建地区に選定する。建造物改築・保存等の財産的援助もあるため、町並保存にとっては大きな手掛かりであり、指標である。






港に接した区域を外れた北部にも旧家が残るが、保存状態は決して良いとは言えない。この辺りは保存地区からも外れている。重伝建として国の補助無しでは保存地区内でも旧家の維持には限度があろう。

 

 選定のハードルとなっているのは町の中心をを貫く県道鞆松永線の存在である。ここは福山市内より沼隈町、内海町などへ向う幹線道路であるが、町の中心部は昔の街路そのまま(注3)のようで、1km弱にわたり幅員が極端に狭いままで、幅員3m程度の箇所が随所にあり、普通車ですら離合が困難である。朝ラッシュ時に時間当たり約500台、休日の日中でも200台を超える通行がある道路(注4)であることを考えると、非常に脆弱な道路であると言わざるを得ない。
 (注3)当地は港町として開ける以前、一国一城令以前は城下町であり、その頃の街路が踏襲されているため道路は狭く、よそ者は安易に車で町の内部に入り込めない。
 (注4)「鞆雑誌2001」(東京大学都市デザイン研究室有志刊)内掲載の調査結果による。


 


このように町の中心を走る県道松永鞆線は普通車の離合も困難な箇所が多く残っている。福山と沼隈町、内海町などを結び交通量が多い幹線道路が江戸期の幅員のままである。
 
 単にこの道路自体が選定の障害となっているのではない。この区間を7mに拡幅し、2車線の道路とする「関江の浦線」計画があるからである。この都市計画は実に1950(昭和25年)にまで遡り、現在福山市鞆支所寄りの70mのみに実現が留まり、それ以西は滞ったままである。狭い通りに覆い被さるようにして建ち並ぶ鞆の家並、拡幅しようものなら町並景観を壊してしまう。「保存地区内に景観を壊す計画があっては矛盾が生じる」という理由で選定に至れない状況である。
 1983(昭和58)年、県が鞆港の港湾整備計画を策定した。それはこの代案といえるもので、港を4.2ha埋立てし、湾内に橋を架けるというものであった。まず反対したのが漁協で、以後交渉が続けられ、1994(平成6)年に埋立面積を六割に縮小した案で同意した。そしてこれを受け県議会で藤田知事は、整備計画を変更する方針を打立て、翌年七月には福山市長、漁協関係者、市議などが審議し、承認された。しかしこれらの動きには、反対派住民はほとんど参加できておらず、行政主導で進められた向きが大きく、両者の間で溝が深まることになっていく。
鞆地区道路港湾整備計画の経緯(1999年まで)
1983(昭和58)年10月 福山港地方港湾委員会の答申を受け、広島県が鞆港湾整備計画を策定、埋立面積4.6ha
1987(昭和62)年12月 漁協の反対などにより、知事が県議会において63年度予算化見送りを表明(計画中止)
1989(平成元)年10月 県が鞆港湾整備計画の見直しを開始
1992(平成4)年2月 鞆地区道路港湾整備計画検討委員会が初会合(計画反対派は2名のみ)
1993(平成5)年2月 鞆地区道路港湾整備計画検討委員会、第3回委員会において埋立面積を当所の半分に縮小する案を了承
1994(平成6)年7月 県が計画案について鞆町民に説明会を開催
1995(平成7)年1月 広島県久保副知事・福山市長が推進、反対派住民の意見聴取
1995(平成7)年2月 福山市長が県知事に早期実現を要望、その席上知事が市町に「鞆地区まちづくりマスタープラン」の策定を要請
1995(平成7)年9月 広島県が焚場跡の試掘調査
1995(平成7)年10月 鞆地区まちづくりマスタープラン策定委員会が初会合
1996(平成8)年1月 鞆地区道路港湾景観検討委員会が初会合(以下、2回目6月、3回目翌年3月)
1996(平成8)年3月 鞆地区まちづくりマスタープランをまとめる(埋立・架橋を前提とするもの)
1997(平成9)年7月 重要伝統的建造物群の指定に向けた町並保存調査開始
1997(平成9)年11月 焚場跡調査で人工的石敷が発見される
1998(平成10)年3月 鞆地区道路港湾景観検討委員会が「迎賓都市」として建設推進案(デザイン案)を提示
1998(平成10)年5月 県教委が焚場跡の調査結果を「江戸時代の焚場である可能性が極めて高い」と発表
1998(平成10)年9月 定例広島県議会の地元議員の質問に対し、「県としては景観検討委員会の基本計画や埋蔵文化財調査の結果を踏まえ、道路計画の検討を行い福山市の協力を得て事業着手できるよう最大限の努力をする」と回答
1999(平成11)年2月 福山市長・議長・地元県議・推進団体代表が広島県知事に要望。その際知事は「焚場遺構区保存のための埋立面積2.3haが約2haとなる。今後福山市と連携し、関係者に説明を行い理解を得て諸手続きを行い2年後工事に着手する」と回答
1999(平成11)年6月 鞆町民にとも地区道路港湾計画変更についての説明会開催(反対派住民はほとんど不参加)
※「芸備地方史研究」(広島大学日本史研究室芸備地方史研究会)222/223合併号より
 

 50余年も前の都市計画道路が未実現であるからこそ、鞆は古い港町の姿を留めている。しかしその一方、昔のままの街路が重い足枷となり、地元住民の不便さ、また逆に重伝建指定への障害ともなっている。もはや町並保存、地域住民の利便性の両立を図ることは困難な状況となっている。 
 行政は架橋計画と重伝建指定を連動して考える方針である。今年度中にも着工の予定であったが地元の100%の同意が得られないためほぼ不可能となった。行政側と反対派住民との溝は深まり、出口の見えない混沌とした様相となっている(以下、次号へ)


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