登米の郷愁風景

宮城県登米町<城下町・商業町> 地図  <登米市>
 
町並度 6 非俗化度 6  −城下町を基盤に北上川水運の一大拠点として発展−




登米(三日町)の町並


 登米は県の北東部、平野と丘陵の交錯する地形のもとに展開しており、町の中央を北上川が貫流している。
 古くから開けた地で、文治5(1194)年には早くも葛西氏がここを本拠に現在の岩手県南部を含む一帯の大領主となり、寺池城と呼ばれる城を構えた。豊臣秀吉に滅ぼされるまで約400年間支配が続いた。中世末期には北上川の水運の拠点としての機能も発達していたという。
 関ヶ原の役後に寺池城に入った白石宗直により本格的な城下町の建設が行われ、城の周囲に武家屋敷、北上川岸に町家を配し、河岸より物資の積卸を行わせた。武家町は短冊状の町割がなされ前小路・後小路などと呼ばれ、それを取り囲む地区に足軽を置いた。また中世まで氾濫を繰返し流路の安定しなかった北上川の改修を行ったことも白石氏の功績である。
 

登米(荒町)の町並  


 
 近現代になって鉄道沿線から外れたことで町は衰退したが、逆に藩政期以来の姿を留める結果となった。当時の町家地区にあった三日町・九日町・中町などといった町名が今に息づいている他、鰻の寝床状の間口の割に奥行の深い都市型の宅地割の名残が市街中心の家々に受け継がれている。商家系の古い町並としては残念ながら連続性が高いものとはいえないが、土蔵や看板建築も多く見られ、それは明治以降も近隣に先駆けた地区の中心としての役割が与えられ、賑わいを呈していたことを示しているようであった。
 一方で武家町の名残としては厳かな茅葺の母屋と広い庭園を残す鈴木家を筆頭に、町家地区の西側にその姿を残す。ほとんどが門と塀のみしか残っていない例の多い旧武家町にあっては、比較的原形をとどめているといえよう。
 今回はこの町に宿泊しての再訪で、前回は東日本大震災の影響で修復中の建物も見られるなど、町並としても健全な姿を取り戻しているとは言えない中での探訪であった。今回はそれらの建物ももとの姿を取り戻しており、城下町・川港町以来の町の姿を濃厚に感じることが出来た。
 
 




武家町の名残がある一角




   九日町の警察資料館
 

 

市街中心には看板建築の連なる一角もある

2022.07再訪問時撮影      旧ページ

訪問日:2012.08.15
2022.07.16・17再訪問
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