豊岡の郷愁風景

兵庫県豊岡市<城下町・陣屋町> 地図
 
町並度 6 非俗化度 8 −但馬北部の中心地−




 豊岡市は但馬地方の北部、円山川の下流域左岸に開ける盆地上の平野に町が開けている。但馬地方では最大の町で、また歴史深い町でもある。
城南町の町並




城南町の町並

 大化改新の頃の条里制遺跡も発見されているところで、肥沃な平野が広がる豊岡盆地は古代から着目されていたことがわかる。
 市街地の南東部に神武山という小高い丘があり、ここがかつて城が構えられていたところである。羽柴秀吉による但馬出兵後、その部将により豊岡城下町が計画・建設され現在の町割の基盤となっている。
 1615年の一国一城令により豊岡城は廃城となったが、北但馬の中心地としての役割は継続し陣屋が設置されている。豊岡藩が成立し、幕末までその多くが京極氏による統治であった。
 周囲の山間部や海浜部からの産物は地形的にもこの豊岡に集結することは自然であった。円山川は水運に使われ、河口の津居山は港町として日本海沿岸との交易も盛んであった。商工業も発達し、鞄の町ともいわれるように手工業も盛んに行われるようになった。
 廃藩置県時には一時豊岡県が成立しており、北但地区の中心として長らく機能してきた町である。
 市街地には幾つか古い町並の残る地区が見られ、それぞれ異なる表情を持っている。まず神武山の南東側の城南町付近では、但馬らしいうだつや袖壁を従えた町家が見られ、間口の広いものも多く豊かな商家が多く立地した地域だったのだろう。バス通りの1本西の筋にも連続性の高い家並の所々に伝統的な建物が見られた。豊岡新町というバス停があったが、城下町が拡大される過程で商人が新たに集積した所だろうか。北側の京町にかけても散見され、一部には木造三階建ての店舗も見られた。 
 またこの町のもう一つの特筆すべき点として洋風の建物や、看板建築と俗に呼ばれる前面に胸壁を立ち上げた建物が多いことが挙げられる。特に豊岡駅の東側、市役所のある東西の通りに顕著に見られ、看板建築が連続した景観もある。これらは大正14年の北但馬地震からの復興の姿という。北但大震災とも形容されるほどの大災害で、地震そのものに火災による被害が加わり市街地の多くの建物が失われた。その復興建物と云うと既に100年近くになるが今なお現役の店舗として使われており、貴重なものといえよう。
 界隈で最も目立つ旧市役所の建物も昭和初期の洋風建築であり、またその向い側には昭和9年築の旧銀行建築が現在は宿泊施設として利用されている。この辺りから東がこの町を象徴する風景ともいえるだろう。
 

 

京町の町並 
 

 

 中央の町並 看板建築の連なる箇所もある
 

 
かつての銀行建築を活用した宿泊施設
   
2022.10再訪問時撮影       旧ページ
訪問日:2012.04.30
2022.10.16再訪問
TOP 町並INDEX