特別企画 

旧山陽道を辿る(10)

41. 明石〜兵庫(五里)    


須磨浦海岸

 大蔵谷を出た旧山陽道は海辺に出て、舞子から須磨にかけて海岸を進む。現在国道2号線・山陽本線・山陽電鉄の並行する区間、旧道は完全に消えている。この区間、往時は街道松がびっしりと植えられていたそうだ。須磨駅の手前は源平合戦で名高い一の谷地区であるが、山陽道を辿る者にとっては時代が異なり、また時間的にも厳しいので立寄ることはしない。
 JR須磨駅の南はすぐに海で、旧山陽道はこの駅前からやや北東に進路を取る。須磨の町並は阪神淡路大震災による影響が大きく、往時の雰囲気を家並に見出すことはできない。

付近地図
 


 
須磨寺



須磨寺の参道には弘法大師伝説のある泉が湧く


 近くに須磨寺がある。山陽道筋からもすぐで、短い参道が伸びている。現在ここは商店街となっている。当時は大きな門前町が開けていたのだろう。商店街が途切れた位置、小さな交差点の北東角に弘法大師が杖で掘った所泉が湧いたという伝説のある水場がある。小さな屋根がかけられ、内部は何槽かに分れ、一番川下の槽は洗濯用になっていた。
 摂津国最初の宿場は兵庫である。ここは宿駅としてだけでなく大港町でもあり、中世には関が置かれ、瀬戸内海を東進してきた荷船は改めを受けた。その後も民国に対する貿易港、江戸期には西廻り航路の重要な港として兵庫津の名は高かった。
 一方宿場としても本陣1軒と脇本陣4軒を構え、その他に浜本陣があった。浜本陣というのは、各藩の産物を売買する特権を与えられ問屋業者で、江戸も後期になると本陣よりも浜本陣への宿泊を希望する大名が多かったとか。現在それらの遺構は跡形もなく、住宅地と商業地、南側の海沿いの地区は工場地帯である。
 兵庫駅前を東に進み、南北の広い道路との交差点に柳原えびす神社と呼ばれている蛭子神社があり、この北西側が兵庫津の西惣門の位置に比定されている。兵庫の町の入口で、ここから南東に分れていくやや細い道が旧山陽道だ。おそらく往時の道幅のままと思われる。ところがその両側に並ぶ家々は全く平々凡々の都市風景、大都市神戸の一角であるのでこれは仕方がないところだろう。
 かつての宿場街に唯一残っているのは、阪神高速を抜けた先に、歩道に半分埋もれた形で残っている道標であった。この交差点は札場の辻と呼ばれ、高札も置かれ町の中心であったという。この道標は築島寺・和田岬を示しているというが、歩道により嵩上げされ、さらにマンションの土台に埋もれ、「和田」の文字しか見えなかった。
 

付近地図





兵庫宿での遺構はこの歩道に半分埋まった道標程度のものだ。


42. 兵庫〜西宮(五里)
 


かつての兵庫津は殺風景な姿となっていた。


 
神戸駅の手前のこのガード下が旧山陽道


 

 先の道標の位置から街道はほぼ直角に曲り東に向うが、真っ直ぐ進めば海に突当たる。かつての港は対岸を埋立てられ、重機が蟠踞する重工業地帯である。コンクリート擁壁に固められた現在の岸壁にはそれでも、小型の漁船が停泊していた。かつてはここに各地からの船がひしめいていたことを思うと、隔世の感を抱いてしまう。
 その先、旧山陽道は北進し一旦JR線を跨いで北側に回りこむ。「回り込む」とは現代人の勝手な感覚で、かつてはこの南側が海だったのかもしれない。この付近、JRの高架付近に庶民的な商店街、高架下には怪しげな飲み屋街が連なり、いわば前近代的な雰囲気なのだが、もちろんそれらは戦後の風景であり、山陽道時代の面影は想像すべくもない。
 旧道は現神戸駅の構内を北西から南東へ貫通していたものと思われる。近代交通である鉄道(国鉄)はここを境に山陽本線から東海道本線に変わるが、山陽道は構わずさらに東進を続ける。
 ここから先、神戸の中心市街地となる。明治期には貿易港となり全国に先駆けて近代都市へと変貌した町であり、また戦災や阪神淡路大震災の影響もあって、往時を語るものは全く残っていない。それはこの先西宮にかけても同様である。
 アーケードに被われた元町商店街が旧山陽道の道筋をそのまま踏襲しているということをどれだけの人が知っているだろうか。兵庫津の後背地として、徳川時代にはこの辺りが神戸で最も繁華な一角だった。兵庫から三宮へ、時代とともに中心は徐々に東に移動している。
 元町商店街の一本南は中華街で有名な南京町。その突当りに大丸百貨店が見えてくる。この辺りにかつては高札があったという。神戸の都心風景が広がる現在の風景は当時の旅行者の誰が想像したであろうか。ここからしばらく旧道は原型を留めていないが、北東に進み今のJR線、阪急電鉄を横切り、JR三宮駅構内を再び横切っていたものと推測されている。この付近より南側は幕末から明治にかけて近代的な貿易港として整備された所で、山陽道筋もかなり早期から近代的な町並へと変化していったものと思われる。現在でも多くの洋風建築の残る旧居留地も近い。
 
付近地図
アーケードに被われた本町商店街は旧山陽道の
道筋そのままだ。



商店街のすぐ南は有名な南京町




大丸百貨店。この前も山陽道の道筋であった。 旧居留地らしい洋風建築が台頭してきた頃、山陽道はその役割を終えた。

 ここから先、灘・芦屋と続くが、この区間にはほとんど道筋や遺構が残っていないと判断されることから、残念ながら時間の都合もあり割愛した。この間、中国行程記は「この所大酒屋多し、銘酒安値なり、中、西国に下し、上酒というは多分これなり」と印し、また「この山によき白石あり、御影石と云うはこれなり」「石屋と云えるはこの奥山、御影山より石掘出す、石細工人多しゆえに名とす、当所より御影石牛車に積み、浜辺に出す」とある。現在の東灘区御影、石屋川の辺りを指している。現在では全くその面影は車窓から感じられない。


43. 西宮〜大坂(五里)



西宮戎神社

 西宮は山陽道上で大変重要な意味を占める宿駅だった。ここからそのまま東に向えば、大城下町・商業都市である大坂にたどり着く。また北に進路を取れば京都への道。この旧西国街道は、文字通り西国からの参勤交代の大通行が絶えず、主要街道にも劣らないほどの幹線路であった。

 ところで、山陽道とは正式にはどこからどこまでなのだろう。西宮に着いてその疑問を改めて感じる。「中国行程記」では、ここから先は大坂道と記述されている。また、京都へ向う北への道は山陽道とは呼ばない。西国街道である。しかも、これまで辿ってきた旧道も含め西国街道と呼ばれることもあったという。となるとますます曖昧になり、この西宮で辿る旅を打ち切る必要性も出てくる訳だ。
 国道2号線は大阪が起点。山陽本線は神戸が起点。しかし新幹線だとやはり新大阪である。西宮で打切ってしまうのはあまりに惜しい。そこで大阪の地にも足を記しておきたい。加えて参勤交代の幹線だった旧西国街道を辿り、やはり京都まで向おうと思う。

 西宮宿は西宮戎神社より東、現在の阪神西宮駅の南側に東西に展開していた。戎神社は現在でも広大な緑濃い敷地を有し、周囲を練塀に囲まれ、内部は喧騒から隔絶された別世界のようだ。この神社は毎年新年に行われる十日戎の期間中にある「開門人事福男選び」という珍行事で有名だ。表大門から一斉に本殿に向って先を争って駆け出し、上位三着の者が福男とされるというもので、毎年全国ニュースにもなるほどである。「西宮神社」「えべっさん」と通称される大きな神社だ。

付近地図




阪神西宮駅の南側がかつての西宮宿であった。





 
阪神の高架下をくぐったこの辺りが西国街道と大坂道を分岐する地点だったはずだが全く面影はない。 尼崎西本町の町並
 
 
 西宮宿はこの戎神社の門前町的な機能もあり、また山陽道が西国街道と大坂道に別れる地(西国街道と大坂道が合流する地)でもあるため、相当な賑わいだったらしい。かつての宿駅は今は全く姿を残して居らず、駅前の雑然とした商業地となっている。これほど完全に残っていないのも珍しい。街道は東川という小さな流れにぶつかると北進し、この辺りで大坂道と西国街道に分れていた。
 東川は今ではコンクリートに囲まれた、水路というような雰囲気しかないが、戦後しばらくまでは鮒なども住み、川遊びをする子供も多かったという。
 ここからは大坂道を進む。阪神電車からは甲子園球場が見える。旧道は阪神電鉄の北側をほぼ一直線に東進し、武庫川を渡る。尼崎市内に入ると街路は俄かに南北にくねり、市街中心に近い貴布祢神社付近で南に折れ、交通量の非常に多い国道43号線に沿う。しかし、国道のすぐ南の西本町には今でも下町的な町並が狭い路地の中に残され、一部に町家風の建物も残っていた。北側には多くの寺が集まった寺町があり、工業都市尼崎にあって昔を感じさせてくれる。

付近地図 
 大坂への道はここからさらに複雑な筋を描く。現在の阪神大物駅の東側を北上し、現在の山陽新幹線にかなり接近した位置で神崎川を渡る。神崎には本陣があったと言う説もあるが、参勤交代路ではなかったためいかがわしい。川止めになったときのための宿泊所か。
 渡った先は大阪市淀川区加島付近である。ここは鍛冶屋の多い地だったことから、「かじま」と読む。香具波志神社付近で一部旧道が残るが、それ以後旧国道に吸収されて面影は全く残っていない。山陽新幹線の高架と二回交差する。淀川に突当たった所が淀川の渡し場があった十三である。
 現在は淀川区の中心、阪急の全ての電車群が収斂するこの十三は、渡し場や港町、あるいは宿場といった風情を残している筈もない。ここから大坂城下までは船渡り五十間であった。

付近地図
 
 先に書いたように西宮から大坂までは山陽道とも呼ばれはしたが正式には大坂道というのが正しいだろう。一大商都であった大坂にまず到着した。しかし、江戸に向う参勤交代の道は、西宮から西国街道を辿り京都へ達するのが基本だった。京都からはさらに東海道、そしてその先で中山道がさらに東へ、東国へ向っている。そこでこの「山陽道を辿る」シリーズはさらに西国街道を辿り、京都を最終的な終着点とした。その報告はまた別紙で行うことにしよう。




現在は阪急電車の一大ターミナル駅となっている十三は淀川の渡場として栄えた所。



大阪城の天守閣
                                       
                                                    →京都への道(旧西国街道)へ
(2005年9月3日取材)

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